続き→トゥモローワールド(原題:Children of Men)
自分の分析でお気に入りだったのが最後のシーン。途中「聖域」というセリフがでたけどHuman Projectという場所があるかなんて誰も知らないのに(ジュリアンは知ってたのか?)主人公とキーはそこを一心に向かっていく、ていうのが話の大筋だけどまさに「ディストピアからユートピアへの脱出」でしたね!強烈な資本主義批判、言い方を変えると資本主義が持つ全体主義との類似点の批判、その危険性の批判。ジジェクの「コミュニズムよもう一度」という言葉にあるように、我々は決して現状に満足してはならない。常にユートピアを目指していかなければならない、たとえそんなものが存在しなくとも、というメッセージが強烈!だって脱出する乗り物が船って!まさにノアの箱舟そのもの、ただノアの箱舟解釈は何通りかあるけどあの大洪水確か「聖域」をも洗い流しちゃうんだよね…笑。その辺やっぱりなんとなくで「船」って決めたのではないだろうし、どういった意図があるのか、他の方の意見も聞きたいと思いました。
トゥモローワールド(原題:Children of Men)
原題と全然ちゃうやんけ!と思ったけどディストピアがうまく描けてると思った。以前ジョージオーウェルの1984を批評した際と同じような手法になってしまうためやはりディストピアものの限界というものはその辺にあるのかもしれない。
まずやっぱりカメラワークが素晴らしいと思った、露骨なまでのバックグラウンドの強調。バックグラウンドは文化的背景でもあり、映像の後景のことでもあり、後景に映し出されるものがイギリス人が国のイデオロギーやプロパガンダに絡め取られ見えなくなってしまっているものだったと思う。そして冷酷なまでに描かれない移民たちや、石を投げてくる人たち。サバルタンはやっぱり語れないのか、と思ってたら収容所で一気に展開が変わる。リベラル派の方が過激、という日本でよく観られるようなシーンが演出されててなんとも…笑。
Mr.Nobody
カオス理論を用いた映画バタフライエフェクトとの間テクスト性はもちろん否定できないけど、他の多くの作品とも間テクスト性を持っていそうだと感じました。
音響面の話、全員が同じ車に同じ服を着ていた精神世界の描写はルームトーンが排除されていた(?)ように感じられ、ヒッチコック監督の鳥のような不気味さを感じた。そういった間テクスト性を意識したかは定かではないけど、精神世界の描かれ方は大いに分析の余地があると思う。精神分析を用いるとしたら映画インセプションでいうところのリンボーと近いものがあるんじゃないかな。
またこの映画の興味深い点は「何も始まっていなかった」こと。選択をしない選択をした、状態に戻るビッグクランチの発想はドゥルーズのリゾーム構造を基に、ジジェクの主体の中の主体と客体、欲望と欲動の話で切り込めると思う。仮にやってみるとしたらアンナ(対象a)から常に最短距離を保ちぐるぐる回るニモ(主体)、その主体を作り上げたのは客体であったアンナ?とかになるのでしょうか…。精神分析は下手なこと言えないので怖いです。
レヴェナント
もっと表情がコロコロ変わるキャラの方がデカプうまいのになぁ〜、とか思ってた前半の自分をはっ倒したくなる程後半の圧倒され具合はすごかったです。映像美やら云々はもうそこかしこで言われてるので置いときます。
言葉に表しづらい感動でした、自分の未熟さゆえだと思います…。生と死、人と自然、父と子、そして神と子、そういった二項対立が散りばめられている中でその二項対立にあてはめられない存在がだんだんと浮き彫りになっていくポスト構造主義的な要素が濃かったです。主体の形成とかになるのかな?時代背景は違えど現代でも大きな議題であるナショナリティとアイデンティィを巡るポストコロニアリズムの話は絶対に避けては通れないものだと思いました。
また個人的な分析で気になったのは、息子であるホークにとってチームの中で信頼できたのは父とブリッジャーだけで、周囲は白人だらけ=敵だらけという環境をグラスが作り上げてしまい、独りになったグラスがホークのいた環境を追体験するような大筋が物語に見えたのが印象的でした。あの妻の幻想はどういった意味や象徴性を持ってたんだろう…。
アメリカンスナイパー
素晴らしい作品だった。一周見た考察点は主に3つ。
1点目はクリスの心の変化の過程。アメリカの典型的な家父長制度が根付く家庭の中で自身で積極的にアメリカのイデオロギーを刷り込んでいく様子が冒頭で描かれているのに対して、だんだんと自身で刷り込んでいったイデオロギーに懐疑的になっていく過程が見事だった。
2点目はあれを見たアメリカの反応。リベラルと保守で論争が起きた点は制作サイドの意図通りだったと感じた。何よりあの英雄的なラストシーンで作品を締めた後の無音のエンドロール、メッセージ性を感じざるを得ない。それに一度もアメリカ国家が流れなかったという点も不用意に映画自身がプロパガンダとして機能するのを避けてたように見える。
3点目は精神分析的観点。クリス単体よりも描かれている世界全体を対象に、帰国した後に描かれるハイパーリアル、そして手放さなかった聖書やコーランといった「神」から連想される正義論の話。ジェームソンの封じ込め戦略をはめ込んだ時に、生まれていた必然性はなんだったのか、ここはもっとちゃんと論文とかで検証する必要があると感じた。
Magnificent 7 マグニフィセントセブン
IMDbの評価が高かったから観たけど全然面白いと感じなかった。私は7人の侍も荒野の七人も観てないのだけど、これら二つの作品と大きく異なる多人種に渡るキャスティングという点が全く活かしきれていない。ただの現代の世界の「表層」だけを抽出して金のために作られたという印象が拭えない。イーサン・ホーク演じるキャラのPTSDも現代において大きな問題として捉えられているから取り入れただけなのでは?と脚本でしっかりとどのように乗り越えたか、とかどのようなリアルな葛藤があるかとか、一切描かれていないのが本当にもったいない。
当時の時代背景を思いながらこういうことが問題としてあったんだな〜、ガトリングガンっていうのがでてきたんだな〜、くらいしか感じなかった。
ネットを見ても称賛の嵐だけど「この映画は見なかったことにしよう」と感想を残した私と似たような感想を持った方もいてちょっと安心。なんの批評もできなさそうな映画だった、楽しみだっただけにただただ残念。
Born To Be Blue 観た。
音楽をやってる人として自分が通ってこなかったジャズの先駆者にチェットベイカーという天才がいたこと、彼がどういった人生を歩んできたのかを知る点ではよいきっかけになった。
けど、映画としは正直そこまで面白くなく、人に薦めづらいものだと感じた。
黒人文化の中の白人といったポストコロニアリズム的な脱構築ができると思ったけどドキュメンタリー色が強くて歴史主義批評に終わりそうだったからそこはちょっと残念。
カメラワークやエディットといった演出はすごくユニークで、チェットが選択しなかった未来や過去といったものが白黒で描かれることや、ステージ側のチェットとオーディエンスがリバースショットなどのカメラワークで描かれてたのはいろいろ考察できる気がする。
最後のラストシーンの考察はめんどくさくなったのでネットで他の方のものを拝見しました笑。誰よりもチェットのことをわかっているからこそヘロインを摂取してしまったことがわかった、という感じですかね。切ない…。
マルクス的な労働からの疎外→音楽的な貢献からの疎外。ただこれも見方に寄ればジョンもSNSではさも貢献しているように「振舞っていた」だけで、実際には自分が一切溶け込めていないことを誰よりもわかっていたのかもしれない。それにFRANKの表情だって「説明」しても誰にも真実はわからないのだし。
気になったのはドンの存在。ドンが初代キーボディストを降りた後もバンドにのっていた理由や、精神病患者であったにも関わらず他の健常者(ここでは便宜上こう呼んでおく)よりも遥かに「健常者」らしかったこととか、そして何よりも彼もジョンと同じ様にフランクへの同一化を図っていたこと。そしてフランクの被り物をした上での自殺。あのスタジオの中での覇権はどこにあったのか、おそらくクララだと思うけど、「カリスマ」と勘違いされたフランクの作る音楽がうまくイデオロギーとして作用していることにクララが気づいて常にバンドの中で内在化された抑圧構造が働いていたんだと思う。
インセプション分析するとしたら現実世界をボードリヤールのハイパーリアルに結びつけてやりたかった。主人公のコブが無意識の中に閉じ込めた亡くなった妻・モルのことを『お前は影に過ぎない』て言ったのもカール・ユングの精神分析用語に出てくる「影」と完全に繋がったのになぁ。ユングの影の概念は無意識の暗い部分で抑圧したい自分の劣った側面=影、という風に解釈されてるから「コブ自身の罪の意識の投影→対象a」として展開できる。
タイトルのINCEPTION(植え付け)も劇中のセリフにあった『アイデアはウィルスの様に伝染する』ていうのも作品と読者の入れ子構造として、アルチュセールのイデオロギー装置に繋げられたかな。少し極端だけど。
大学で批評理論という学問を基に映画分析(主に英米)をメインに勉強してます。趣味は音楽です!
よろしくおねがいします!