クライ・マッチョ
> 70年代のイーストウッド映画みたいだった。
あ。でも当然ながら、70年代のイーストウッドのように、荒くれで銃をぶっ放すという、そういうことではないです。
「70年代のイーストウッド映画みたい」というのは誤解を招く記述だったな。
「70年代の映画みたい」なのは確か。
クライ・マッチョ
70年代のイーストウッド映画みたいだった。
前情報を何も入れずに観たが故に、この映画がロードムービーであることに気づいたのは上映開始からだいぶ経ってから。まぁそれも良い。イーストウッド映画には、いい意味で、もはや何も期待していない。イーストウッドの映画はとりあえず観る。それだけだ。
シンプル。物語もオーソドックスで、なーんの飾り気も捻りもない。でもね。アメリカとメキシコの荒野、そして、メキシコの名もなき村に滞在している間にかかる曲「Sabor a mi」だけが強烈に印象に残っている。
最近考えが変わった。
映画には「目的」も「意味」も「うんちく」も必要ないと思うんだ。観ている間にそれらの余計なことを全て忘れることのできる映画こそが、その人にとっての本当に良い映画だと思う。本作は、全て忘れて観れました。結構こういう経験は珍しい(余計なうんちくばかりが日々溜まっていくからにゃあ)。映画の最初から最後まで、スクリーンをただただぼーっと眺めていただけだ。でも眠くなったりはしなかった。
イーストウッドもそろそろお迎えが来る歳だ。彼の新作が観れなくなるのは寂しい。
@mame8 まじすか・・・。これはショック。ショックすぎるな。
キングスマンとマトリックス・リザレクション
上映中に3回もオシッコ行っちゃったよ。なんかね。やっぱ有名になっちゃったシリーズものは難しいね。やりたいこともっとやれば良いのに・・・。真面目な優等生映画って感じだったんだよなぁ。まぁどっちも好きなシリーズだから税金だと思って金払いに行くのは全然苦じゃないんだけど。とりあえず2時間で良いんじゃないかな、と。
ランボーなんとか
でもね。以外にもランボーは良かったんだ。年明けにランボーの最新作をアマプラでようやっと観たんだが、こっちは結構面白かった。もうね。本っっ当、パターン通りなんだwww。このパターン通りのヌキどころが、中毒性あって良いんだよね。世間や観客そっちのけで、「俺のなんちゃら」ばりに、好きなもの全部ぶち込んで、俺がやりたいんだからやるんだよ!感が、良い。長くやってるシリーズものは時代に、新規顧客を獲得するためにどんどんスタイルが変わっていくものなんだけど、ランボーは全然変わってないんだよねwww。要はスタローンが変わってないってことなんだろうけど。例えるなら街中華だね。スタイル変えずに何十年も続いてるって街中華ぐらいじゃん?
「ラストナイト・イン・ソーホー」
うーん。すごく面白かった。てゆーか映画館で映画を観たのがとても久々だったから、その影響もあるんだろうな。普通にエドガー・ライト印の映画。怖かった。なんかびっくり演出が来そうだな・・・と、わかっていてびっくりしてしまうという。最終的に、エロイーズはサンディを本当の意味で救ったんだよ。ルークがダースベイダーを救ったのと同じだ。あれはスター・ウォーズからの引用だな(絶対に違う)
それにしても「夢見る少女が騙されて、ロンドンの闇に堕ちていく」という魅力的なお話を作っただけで、社会的なテーマが・・・とか言われてしまうのはなんだかなぁと思うわけだ。単に、60年代のロンドンは光も闇も両方含めて魅力的じゃん。という、それ以上でも以下でもない気がする。闇の部分があったって良いじゃん。だって闇はどこにだって存在するんだから。(←のような発言はポリコレ的に正しくないのかね)本作については、テーマは「女性搾取」という批評はちょっと違うんじゃないだろうか。過去作「ワールズ・エンド」が「アルコール依存症にある」っていう人はいないでしょ。それと同じな気がするんだけどねぇ。
ハリー・ポッターシリーズを全作観たんだが
1から3まではむかし観た。15年ぶりぐらいかな。4から後を観たんだけど。
全体的に薄っぺらいとは思いつつ、割と好きなんだよね。ハリーポッター。あの不気味な世界観が良い。怖いところが良い。
ホグワーツとか学校のくせに、危ない場所多すぎだろw・・・とまぁでも、そこが、この映画で一番好きなところなんだよね。自分の生活圏のすぐ近くに「怖い場所がある」。この感覚が懐かしいんだよね。子供の頃を思い出す。
むかしの小学校って怖かったじゃん?校舎がボロくて、トイレは汚くて、人気のない立ち入り禁止の場所もあったけど、入れるようになってて入って遊んだりして。幽霊が出ると言われている場所もあったし、防空壕跡もあった。
全てがフラット化されて光だけの世界になり、その世界が魅力的かと言えば全くそんなことはなく、ただ退屈なだけ。闇と光が混沌としてる世界の方が魅力的だ。
だから、1から4ぐらいまでの、学校の中で起こる事件が描かれるところが一番好きなんだよね。
スーパーサイズ・ミー
マクドナルド。もう何年も行ってない。最後に行ったのは10年ぐらい前かな。まぁでもハンバーガーは食いますが、行くとしてもフレッシュネスバーガーだな。
特にマックが嫌いなわけじゃないんだが、食べたいと思わなくないんだ。てか、マックの店舗が居心地悪くて嫌いなんだよな。
で、マックがどんだけ身体に悪いのか、ってことにはあんまり興味はないのだが・・・。食べないし。
とにかくこの映画を観ると、マックを食う気が失せる。特にあのゲロのインパクトはでかい。ゲロがなくても、毎日マック食っていき、徐々に生気が失われていくモーガン・スパーロックを観ているだけで、気持ち悪くなってくる。
それ以上にこの映画を観て衝撃だったのはアメリカの食事情。想像以上に酷い。酷いなんてもんじゃない。唖然。学校の給食がジャンクフードなんだもんw。栄養士馬鹿なのかw。
とまぁでも、もはや個人の努力でどうにかなる問題ではないんだよね。社会の構造がそうなってる。あの社会構造では、普通に生きてたらジャンクフード漬けになるの当たり前だわ。
日本のジャンクフードがうどんや牛丼でよかったわ。
007 スカイフォールを久し振りに観たんだが・・・
そういえば、
2012年はITが世界を変えると信じられていた時代だったんだな・・・。久々にあの頃を思い出した。ダイハード4とかもそういう映画だったっけ。
時代の流れを感じるとはこういうことか。2012年はAIブーム前夜ぐらいか。それからAIブームが到来し、散々世間を騒がせた挙句、意気消沈。AIなるもの限界が近いことがだんだんとわかってきた現在、ブームは終わりつつあるわけだが・・・。
スカイフォールのシヴヴァにしても、ダイ・ハード4のガブリエルにしても、いま観ると、すこぶる滑稽に思える。これは、その昔、金星にはジャングルがあり、生物がいると信じて作られた映画を観ている時に思う滑稽さに似ているのかもしれない。
バイオハザードは普通にホラー映画として撮ってみて欲しいにゃぁ。・・・と思ったけど、純粋に「怖さ」を競うだけであれば、プレステVRのバイオハザードにはどうやっても勝てない気がしてしまう、今日この頃。
とはいえ、VRが出てきても映画は無くならない気がする。映画の「体験」は才能のある映画作家の感性が生み出すものである。そういった感性なしに、単に「本物に近く」したところで臨場感のある体験は生まれない。
それに今の技術では、どれだけ「本物に近く」できたとしても、それは本物には遠く及ばない。なぜなら、「映像」と「音」は我々の体験を作りあげている様々な感覚のうち、ほんの1部分でしかないからだ。例えば、高度1万メートルからダイビングするVRがあるとする。このVRで、本物のダイビングのような体験ができるのか・・・できるわけがない。上空の澄んだ冷たい空気の中で、空気抵抗を受けながら自由落下する感覚と、「パラシュート」が開かなければ「確実に死ぬ」という絶望と恐怖は、VRでは絶対に作ることができない。もちろん映画でもそのような体験を作ることは不可能である。でもだからこそ作家が頭を使って工夫するのだ。
「100億人―私達は何を食べるのか?」
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07XBTZQYC/ref=atv_dp_share_cu_r
面白かった。我が国では「食糧危機」というと「食料自給率」が云々という話にいき「食料自給率をあげるにはどうしたらいいか?」という問に集約する。食糧危機の背景の構造とは何か?そこまで話が及ばない。
本作は食糧危機の構造が具体的に分かって面白い。グローバル化と自由市場の負の側面、「外部化」が食糧危機の裏の構造的な欠陥だ。
食糧危機の解決策は技術革新である、という結論になっていない。鋭い。地域の小農業の復活が鍵であると説く。
外部化に対する処方箋が地域の小農業の復活だ。日本でいうところの地産地消ということだが、この意味は、外部化への対抗なんだ。真の地産地消は「グローバル市場の介入を、食糧生産ラインから完全に追い出す」ということに他ならない。従って、種子・肥料・栽培・売買・消費の全てが地域内で閉じて循環していなければならない。種子や肥料をグローバル企業から購入したり、できた野菜をグローバル市場へ売ったり。こういうのは「悪い地産地消」だ。この映画を観ていただければそれがわかるだろう。
あと観てて凄いなぁと思うのは、あのリアルな生活感だ。江戸時代の下級武士の日常が凄くリアルっぽい(本当にこんな感じの生活だったのか?は知らんが)。現代人の日常を江戸時代にトレースした「ウソ」なのか。その辺りは全然わからんが、日常風景を映してるだけでもずーっと観れてしまう。
だからなのか、私を含めた一般庶民の観客たちは知らぬ間に主人公に対して「感情移入」してしまう。映画の中の主人公の生活する時間が、観客とシンクロする。こういった映画も「表現」と呼んでも良いんじゃないか、と個人的には思う。確かに、この映画は観客の深層心理に「キズ」を残すことはしない。でも日本人ならおそらくわかるであろう「何か」を残していくんだよね。俗なエンターテインメントにも関わらず・・・だ。
山田洋次といえば左翼だ。が、この時代劇三部作は思想性は全くなく、どちらかといえば保守との親和性が高いのではないだろうか。「下級武士=弱者という記号」は左翼。でも、この映画の記号になっていない部分、すなわち江戸時代の庶民の生活描写には、日本特有の魅力が存分に込められている気がする。もはや左翼革命など暗に否定されているではないか。
武士の一分
たそがれ清兵衛は割と好きで何度も観ているんだけど、その後の山田洋次の時代劇は観ていなかった。
今回、武士の一分を観た。冒頭の20分ぐらいはキムタク臭がぷんぷんしていたんだけど、段々とキムタク臭がなくなっていくんだよね。失明後の三村新之丞はもはやキムタクではなく、ちゃんとした俳優だった。
私の父親は、なぜか知らんが山田洋次作品が好きらしく、子供の頃はよく観せられたものだ。「寅さん」「釣りバカ」「学校」なんちゃらロードショウでやってるのをよく観てた記憶がある。私が山田洋次のぬるい時代劇を好きになってしまう理由は、子供の頃に植え付けられた無意識の記憶があるからなのかもしれない。
「ぬるい」と言うのはちょっと誤解を与える表現か。山田洋次の時代劇三部作は、作品の中盤あたり、主人公はけっこう残酷な現実にぶち当たる。確か学校シリーズもそうだった気がする。でも最後には世俗的に受け入れ易い「救い」がきちんと用意されている。これが予定調和的に見える人にとっては、「ぬるい」と感じられるのだろう。
最近の私は世俗的に受け入れ易い「救い」のある映画をほぼ観ないので、逆に新鮮なんだよね。