彷徨える河(2)
@tacchan メモ
原住民族が話すフィクションは、自然の摂理(ノンフィクション)を説明するための比喩なんだ。
対して、近代人のフィクションの多くは人間が団結するための建前。そのフィクション自体にたいした意味がない。
実存は自然の上に確立している。自然の摂理(現実=本音)を説明するためのフィクション(建前)がある。
我々現代人は、自然の上に確立していると言う意識は、もはや持っていない。家族、国家、宗教・・・あらゆる建前の上に確立してると思っている。現代人にあるのは、これらのフィクション(建前)を説明するためのフィクション(建前)。
現代人にあるのは
フィクション(建前)を説明するためのフィクション(建前)。
原住民族にあるのは
ノンフィクション(本音)を説明するためのフィクション(建前)。
映画を観た一週間後に感想を書くのが良いのかもなぁ。
観てから一週間後、「その映画が自分に対してどれだけ影響を与えたのか?」が、本当にわかる。
一週間後、その内容をあまり覚えていない場合(俺は結構忘れちゃうw)は、観る意味のない映画だったということだ。
これ不思議なんだけど、どんだけ映像が素晴らしい出来栄えの映画であっても一週間経つと全く忘れちゃうって結構ある。「アクアマン」って映画がそうだったし、この前観た「フォード&フェラーリ」なんかも、正直もはやよく覚えてない。どちらの映画も映像や音響がすげーのだが
それでいうと、ノーランの「ファーストマン」は何故か異様に覚えてるんだよなー。あとIMAXの「2001年宇宙の旅」とか。一回しか観てないのにすごく覚えてる(たくさん観たからこそ記憶に残ってる系の映画もありますが・・・BTTF3とか)。
何故この話をしたか?と言うと、昨日観た「彷徨える河」は、何年経っても夢に出てきそうな映画だからだw。今も河が流れる音が脳裏に焼きついてるんだよねw(映画の中でずっと鳴ってる)。
いやしかし、昨日の今日じゃまだ分からないか・・・。
彷徨える河(2)
カラマカテ(原住民族)の「物を捨てろ」ってセリフが印象的。
原住民族は「所有する」という概念が無いのかもね。むしろ、彼らは自然から「所有されている」と考える。
人間は自然の所有物(原住民族の考え方)。
自然は人間の所有物(近代人の考え方)。
どちらもフィクションなんだよね。
この映画を見ると「所有する」という近代人の考え方自体が、土台、人間には無理ゲーであることを示唆しているような気がした。「所有する」って脆弱なフィクションなんだよね。所有権など、いつだって捨てられるし、自分以外のみんなが所有権を信じなければ、効力を発揮しない。
対して、人間は自然の所有物というのは、自然界の摂理だから、とても強力なフィクションなんだよ。
布教区周りのエピソードは、近代人の「所有」というな考え方がいかに馬鹿げていて、害悪であるかを示していた気がする。
さて、「近代人」と「原住民族」どちらが賢いと言えるのだろう?
自然界の摂理を全く理解していない近代人の方がよっぽどバカに見えるんだよね。
今日のラジオで「アップロード」というドラマの話を聞いた。ドラマは観たことないけど、自分の脳の複製について色々と考えることは楽しい。
自分の脳を複製できたとして、複製後の2つの脳は同じものであると言えるのだろうか?俺は違うと思うんだよね。
だって自分のクローンを作れたとして、自分のクローンは自分ではないじゃん。なぜならオリジナルとクローンは異なる自我を持つはずじゃん。
1つの自我だけでオリジナルとクローンの両方を操れるのだとしたら、オリジナルとクローンの両方が自分であると言えるのかもしれない。でもそうじゃないじゃん。
俺が面白いと思う問は
死後、自分の脳のデータを吸い出してバーチャル空間で復元させたとして、バーチャル空間上の自分は生前の自我をちゃんと引き継いでいるのかな?
ってこと。
もしバーチャル空間上の自分が生前の自我を引き継がなかった場合でも、記憶や言語能力は引き継がれるのだから、それっぽい自分はできるはず。
でもそれは本当に生前の自分なのかな?
脳を複製できたとしても、自我が引き継がれる保証はないんだよね。
何故なら、人間は「自我」を定義できないのだから。
エヴァンゲリオン 無料で観れるようになってる。素晴らしい。しかし個人的には、90年代の旧劇場版やテレビ版をもう一回観たいんだよな。
新劇場版には旧シリーズにあった魅力が一部欠けてるんだよな。それは碇シンジの自殺願望。「鬱」「自傷」「狂気」「性欲」「欠落」「破滅」。人間の内面におけるネガティヴな側面がビンビン伝わってくるものがあった。(多分庵野監督が鬱だったから?こういう作品になったんだと思うけど・・・)
新劇場版は、このネガティヴ要素がかなり削ぎ落とされてんだよなー。庵野監督の精神状態が正常ということなのか。それはそれで良いか。
あるいは時代が変わったのか。90年代ってのは、社会の表と裏が明確にあった。都市伝説のようなものも多かった。社会の中に「未知=社会の裏=ネガティヴ」が認知されていた。昔はその「未知」にワクワクしたものだ。
今は「未知」がなくなっちゃったよなぁ・・・。全て消費の対象になっちゃった。ネットで何でも分かる。YouTuberのネタだもんね。
とまぁ・・・実は「未知」はまだ結構あるんだけどね。いつの頃からか「未知」の話題を許さない空気ができちゃったよね。
アナ雪2(2)ネタバレ含む
最近、心の声を忘れてしまった人たちを批判する映画が増えてる気がする。アナ雪2もそのような映画の1つだ。「天気の子」もそうだったし・・・。
ただし、この映画ラストがなぁ・・・。めっちゃ微妙。最後、アレンデール王国が流されずに終わるのは、まじで頂けない。結局、代償を支払ってないやん。「天気の子」でさえ、都民に代償を支払わせていたのに笑。まぁあんまり突っ込んでも仕方ないか。
人間は悲劇を共有することでしか団結できない。大量に人が死ななければ、思想や理念など絶対に生まれない。現実に、欧州や中国では戦争が繰り返され大量の人が死んだからこそ、人は理性を参照した。そういう意味で、本作のアナの正義感ってのはとても嘘っぽく感じてしまうんだけど、まぁそれは本作の本質ではないので、無視してもいっか。
アナ雪2(1)
うーむ。俺は1よりも2派だ。ただしラストは頂けない・・・笑。よくできた映画でした。
ここ数年「心の声に従え」みたいな映画が本当に多いように思う。
この映画のテーマは「変わらないもの」だ。その問いの答えは「愛」。しかしこれは、観客にわかりやすく提示された(・・・パンピー向け)1つの答えに過ぎない。
見る人が見ると、本当の答えは「誘惑=感情(エルサ)」と「正義=理性(アナ)」がテーマだ。「変わらないもの」であり、かつ「決して変えてはならないもの」かつ「変えることができないもの」。
エルサは誘惑に従い、たとえ未知のものであろうと、周りの心配には目もくれず、「心の声」の赴くままに生きる。エルサは、好奇心という誘惑には逆らえない。なぜならそれが彼女の生き方だから。(エルサが未知を目の前にしたときに見せる、あのワクワクした表情がそれを物語っている笑)
アナは正義に従い、現状を認識し、常に周りのことを考えながら、理性的に生きる。アナにとっては、この正義(=思想、理念)こそが「心の声」なのだ。
人生観が変わる映画とは?
映画を観て人生観が変わるという経験は滅多にない。
何故なら、映画を観て知識があるだけでは、行動の動機にはならないから。人間は理屈では動かない、とはよく言う。
人生観が変わるために決定的に必要なことは「体験」。映画をたくさん観ていくら知識をつけたところで、体験には絶対に勝てない。
体験は強い動機を生む。なぜなら、その動機は内発的なものだからだ。対して、知識が生む動機は外発的なものだ。人間は内発的な動機に勝つことはできない。内発的な動機により行動してしまう。
人生観が変わる映画とは、
(1) その映画により強烈な体験が得られる。
(2) その映画が身近な体験に繋がっている。
のどっちか。
若い頃に観る映画は、映画体験が浅いこともあり、強烈な体験となり易い。上の (1) に該当する映画が人生観を変えることが多い。
逆に歳取ってくると、(2) に該当する映画が増えてくる。
映画の完成度なんてどうでも良いんだよね。
「記号としての御利益(地位、お金、名声)がなければ、なにもしない」
こういう考え方で生きている人は、気をつけた方がいい。
(1)もし御利益を得ることができたとして、お前はその御利益に満足できないだろう。なぜなら、その御利益はお前が心の底から本当に欲していることではないからだ。その御利益は、所詮は外部から与えられた記号に過ぎない。御利益が無意味だということに気付ければ良いけれど、そんなことは滅多にないだろう。
(2)御利益を得ることができない場合、御利益を追い続けることで生き方を蔑ろにし、生き恥を晒し続けることになる。かつ、御利益を得られないことによる自己嫌悪が続く。
まあしかし「御利益を追い続けて醜態を晒し、全てが無意味だったと気付き、過去を後悔をする」という代償を払うことでしか気づけないのかもしれないね。
外部から自分の脳へインプットされた記号に踊らされてはならない。我々は記号を作り、操り、良い生き方をする事自体を遂行すべきなんだと思う。
「恋はデジャヴ」で描かれていることって、まさにこれなんだよね。
本作の序盤、主人公は記号に振り回され、生き方を蔑ろいにしている。
中盤、主人公は、自分の頭の中にある記号(外部から与えられた目的)を全て達成するが、満足できない。次第に抑うつ的になり、ニヒリズムに陥り、生きる気力がなくなる。
終盤、主人公は生き方そのものが目的となり、手段としての記号(ピアノだったり、人助けだったり、所謂、「良きこと」)を上手く使えるようになる。
生き方や思想は、そう簡単に変えることはできないんだよ。だから「ある目的を達成するために生き方や思想を変える」なんていうことは、そもそも無理なんだよ。なぜなら、人間はいち動物に過ぎないのだから。
「記号に意味はない」ということを自覚した上で「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」と言うのは別に良いと思うんだけど、その自覚がない人は危険なんだよね。
なぜなら「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」と信じ切っている人は、未来に良いことが無かったときにニヒリズムに陥ってしまうから。「記号に意味はない」という事を受け入れられない人は、「本当はこんなはずではない」と自己嫌悪に陥るか、別の記号にすがり醜態を晒すか、こんな世界嘘じゃないか!と世界の破壊をもくろむか、生きる気力を無くして自殺するか、どれかである。
世の中の人間以外の動物はニヒリズムやうつ病とかの精神疾患に陥らない(・・・動物の精神疾患ってあるのかな?)。なぜなら記号がないから。生きることそれ自体が目的だから。「何かのために生きる」なんて絶対にしない。
人間も動物である。そもそも「何かのために生きる」なんて無理なんだと思うんだよね。生理的に無理。だって動物だもの。
「何かのために生きる」とか、生理的に無理な事をやろうとしてるから、精神的に病んでいくんだと思うんだよね。
「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」という思想は、資本主義に起源があると言われてるけれど、、、
マックスウェーバーのプロ倫によれば、元々は、資本主義こそ「プロテスタンティズムな生き方」を実践するための「目的」に過ぎなかった。そういう意味で「目的=生き方、手段=達成」なんだよね。いつの間にか目的と手段が逆転しちゃったのが現在の状態。
「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」「悪い未来を良くする」という思想の負の側面というのは、たいていの場合「未来」やら「良い」やら「悪い」といった記号が外部から与えられているということなんだよね。他人が作り出した「未来」とか「良いこと」という記号に振り回されているだけなんだよね。
「目的」も記号に過ぎない。だから「何かを達成するために目的を立てろ」という言葉それ自体には意味がない。
ではニヒリズムに陥れというのか?そうじゃない。
「達成すること」で、「意味のない遠回りだったなぁ」と気づく経験こそに価値があるんだよね。達成そのものに価値はない。記号に意味はない、という考え方は、意味のない遠回りを経験しない限り、理解できないのかもしれない。
記号に意味がないことに気付けると生き方が180度変わる。
目的=達成、手段=生き方
ではなく
目的=生き方、手段=達成
となる。
「何かのために生きる」ではなく「生きるために何かする」となる。
つまり、いま現在の生きることを最優先にすれば良い。むしろ、そのために「目的」や「達成」といった記号を活用するようになる。
なぜ、そのような生き方がダメか?
そもそも「この世は全て仮想現実だ」という考え方は危険思想だとされている。しかし、そもそも人間が仮想現実を信じるというのは本能なんだよね。危険思想だからといってそれを否定したところで、本能からは逃れることができない。
だから、この世に存在する全ての「記号」は仮想現実なんだよね。五感から得たデータを入力とし、脳が処理し、その結果を「現実」と呼んでいるだけであって、我々は世界をそのまま認識してるわけじゃない。脳が適当に変換した結果を認識してるに過ぎない。脳の構造によって「現実」など容易に変わってしまうもの。・・・そもそも現実とは何なのか?という話になる。
このことから分かるのは、「言語」は仮想現実ということ。「意味」も「概念」も「観念」も仮想現実。
最近「記号」を仮想現実だと思えない人が増えてきている気がするんだよね。「この酷い現実」とか「悪い政治家」とか言うけれど、全て記号なんだよ。
我々は記号、つまり仮想現実に振り回されちゃアカンのよ。酒は飲んでも飲まれるなと言うでしょ。
「未来」も「良いこと」も仮想現実。