彷徨える河(2)
カラマカテ(原住民族)の「物を捨てろ」ってセリフが印象的。
原住民族は「所有する」という概念が無いのかもね。むしろ、彼らは自然から「所有されている」と考える。
人間は自然の所有物(原住民族の考え方)。
自然は人間の所有物(近代人の考え方)。
どちらもフィクションなんだよね。
この映画を見ると「所有する」という近代人の考え方自体が、土台、人間には無理ゲーであることを示唆しているような気がした。「所有する」って脆弱なフィクションなんだよね。所有権など、いつだって捨てられるし、自分以外のみんなが所有権を信じなければ、効力を発揮しない。
対して、人間は自然の所有物というのは、自然界の摂理だから、とても強力なフィクションなんだよ。
布教区周りのエピソードは、近代人の「所有」というな考え方がいかに馬鹿げていて、害悪であるかを示していた気がする。
さて、「近代人」と「原住民族」どちらが賢いと言えるのだろう?
自然界の摂理を全く理解していない近代人の方がよっぽどバカに見えるんだよね。
彷徨える河(2)
@tacchan メモ
原住民族が話すフィクションは、自然の摂理(ノンフィクション)を説明するための比喩なんだ。
対して、近代人のフィクションの多くは人間が団結するための建前。そのフィクション自体にたいした意味がない。
実存は自然の上に確立している。自然の摂理(現実=本音)を説明するためのフィクション(建前)がある。
我々現代人は、自然の上に確立していると言う意識は、もはや持っていない。家族、国家、宗教・・・あらゆる建前の上に確立してると思っている。現代人にあるのは、これらのフィクション(建前)を説明するためのフィクション(建前)。
現代人にあるのは
フィクション(建前)を説明するためのフィクション(建前)。
原住民族にあるのは
ノンフィクション(本音)を説明するためのフィクション(建前)。