安定の河崎実。6/6公開
The half of it(3)
だからさ。
感想に「LGBT映画としてダメ」「人種問題を扱った映画としては甘い」とか書くのやめて欲しいな。
この映画に関しては、その辺は、どうでも良いんだよ。
The half of it(2)
人間の成長プロセスがリアルに描かれていたなぁ。これも面白かった。
エリーは頭が良いんだ。知識は豊富。器用になんでもこなす。偉大な哲学者や思想の残した「愛」についての詩も知っている。しかし彼女には体験がない。そんな彼女が「愛」を体験していくんだよね。映画のラストで、彼女は「愛」が厄介なものだと身に染みて分かったことと思う。そして、彼女は詩を残す(温泉のシーンね♨️)。
知識を得て、それによって体験を得て、そこからまた新たな知識を得る。
知識などたいした意味はねー。これは道具に過ぎない。知識という道具を使って体験を得る。その体験から創作される知識には意味がある。机上の知識だけでグダグダ公爵垂れてる奴は死ねばいい(自分に言ってるつもりなので悪しからず)。いくら本を読んでも何も新しいことを知ることはできねーんだ。なぜなら、知識など後付けに過ぎねぇからだ。体験の後に、知識があるんだよ。机上の空論ゴミ野郎は無視無視。
面倒臭いこと色々抜きにして、なんと言ってもこの映画、笑えるんです。めっちゃ面白い。コメディの撮り方が絶妙。画面の隅々まで愛に溢れてる笑。
The half of it(1)
「愛」とは何か?
「愛」という言葉はただの記号に過ぎない。「愛」は定義不可能。「愛」の正体は、よくわからないけど心の中で内発的に沸き起こる感情。それが「愛」なんだろうな。
偉大な哲学者の「愛」をいくら勉強したところで、永遠に「愛」を知ることはできない。なぜなら、机上の「愛」には体験が伴っていないからだ。各々の体験を経た上で各々の「愛」の形が得られる。個々は様々に異なる。故に、様々な体験がある。だから、「愛」にも様々な形がある。
無論、人参ぶら下げてコントロールできるような、外発的な人間の振る舞いは「愛」ではない。助け合ったり、欲しい物を互いに交換することで「愛」は醸成されない。この映画の主人公エリーとポールの間の関係は、互いに助け合うことで良い感じになっていくように見えるんだけど、それは「愛」ではないんだよね。互いの利益を最大化することは「愛」ではない。
しかし・・・長く時間を共にすることで、互い生活を体験する。そこに共感がある。この「共感」も「愛」らしき感情なんだよな。これは外発的な人間の振る舞いによるものだ。
愛って何なんだ。わからん。
さっき友人とパラサイトについて話していたんだけど、この映画のパワーは「お前がもし俺の立場だったとして、お前は耐えられるのか?」だよなぁ。と気づいた。
お前がどれだけ理性のある人間であったとしても、主人公(ソン・ガンホ)と同じ立場に立ったとしたら、同じ行動(ナイフで主人をぶっ刺す)をするだろ?
「貧困がだめだ!」とか何度言ったところでわからない人にはわからない。だって体験がないんだもの。自分は理性的であり、貧困であっても人を殺すことなんてありえない。人を殺す奴の自己責任であって、そいつが悪い。
「人を殺したい」と思うほどの貧困者の立場を体験をさせてやれば良い。そうすりゃ自己責任だなんて言えなくなるはずなんですよね。
彷徨える河(6)
西洋の思想や理念がよくもてはやされるけど、結局のところ、これらも後付けの仮想現実に過ぎない。
昨今「理念(仮想現実)→実行(現実)」という考え方が正しいように言われますが、世の中の摂理としては逆。「実行(仮想現実)→理念(現実)」なんだよ。思想や理念はいつだって後付けに過ぎない。
しかし、戦争では「理念(仮想現実)→実行(現実)」という考え方で動いた方が強い。経済競争でも同じことが言える。
つまり、人間にとって「理念(仮想現実)→実行(現実)」というのは建前に過ぎない。本当は「実行(仮想現実)→理念(現実)」でありたいというのが本音。
「理念(仮想現実)→実行(現実)」って、生き難いでしょ?「実行(仮想現実)→理念(現実)」の方が楽に生きれる。
ヨーロッパ人って、そのことがよく分かってると思うんだよな。西洋思想発祥の地であるからこそ、西洋思想なんて所詮建前であることが分かっている。でも戦争で使える考え方だから使ってるだけ、みたいな。
彷徨える河(5)
根底に仮想現実だけの状態って非常に危険なんだよね。なぜなら、仮想現実はすぐに消えちまうし、それ自体には意味がないからだ。
国家も会社も金も全て仮想現実なんだけど、現実であるかのように錯覚してはいかんのだ。
また、根底に仮想現実だけの状態の人はニヒリズムに陥り、そのうち生きる気力を失ってしまう。生きる意味を考えちゃう。生きる意味自体が仮想現実だ。
では現実と仮想現実の定義は何?っていう問が重要。でも、結論は出てないんだよなぁ(すごく難しい)。
自分の中でなんとなくこれかなぁ・・・というのは、仮想現実は記号で表現されたもの。現実はそれ以外の全て、という定義。
例えば、「暑い」という言葉は仮想現実だけど、「頭がクラクラして、汗が出て、息苦しい」という感覚は現実だ。感覚は現実だけど、それを言葉にしたらそれは仮想現実だ。
でも、この定義だと説明し切れないこともある気がするんだよな。
コロナ自粛で暇だから考える時間だけはある。
彷徨える河(4)
彷徨える河を観た後、良い仮想現実と悪い仮想現実についてずっと考えていた。
結論が出た。その結論とは「人は現実に根付いた仮想現実を見るべき」ということかな。
世の中には「仮想現実に根付いた仮想現実」というものが存在する。これが悪い。人を、ひいては世界を狂わせる。この映画の中ではキリスト教がその象徴。(でも本当のキリスト教はそうじゃない。たまたまこの映画では悪役としてのキリスト教が登場しているだけなので悪しからず)
例えば、「人を殺してはいけない」という命題がある。これは仮想現実だ。人がそう思い込んでるだけだ。なぜ人を殺してはいけないのか?と聞かれたときに「法律でそう決まっているからだ」と言ってはダメなのだ。だって法律は仮想現実だから。
(仮想現実)人を殺してはいけない
↓
↓ なぜ?
↓
(仮想現実)法律でそう決まっている
仮想現実なんて所詮は建前なんだよ。
(仮想現実)法律でそう決まっている
↓
↓ なぜ?
↓
(現実)?本当はここまで考えるべきだ
現実と仮想現実の境目は明確に自覚すべきだ。そういう教訓を得た。
ルパンvs複製人間
久々に観た。
割と、意識を電脳化しました!みたいな設定のアニメや漫画って多いんだけど、そもそも自分のクローンや電脳を作ったとして、本当にそれで自分は永遠に生き続けたことになるのかね?
意識を電脳化できる=>意識を複製できる
なんだよな。
複製できるならば、自分を複数作ることができる。当然、複製元は自分で、複製先は自分じゃない。
ところで、自分の意識を電脳化するということは、自分の意識を脳味噌からコンピューター上に複製するってことじゃん。つまり、複製元(自分の脳味噌)は自分だけど、複製先(コンピューター上)は自分ではないじゃん。
だから、自分の意識を電脳化したとしても、自分が永遠に生きたことにはならない。自分の複製は永遠に生きられるだろう。しかしそれは自分(複製元)ではない。