ダークヒーローというと個人的には正義とか公共性とは無縁の、あくまで私的な価値観で物事を判断し行動する享楽的なキャラクターのイメージがある。
人々の暗い欲望の反映というか、普通の日常生活を送っていると決して成就されない悪事をあっけらかんと実行してくれる人。『ハンニバル』とか、『ハウス・ジャック・ビルド』とか、『ダークナイト』ならジョーカー。ピカレスクロマンの主人公タイプ。
でもこういうタイプもダーク「ヒーロー」と呼ばれうるのは面白いところで、象徴性を帯びているかどうかがヒーローと非ヒーローを分かつところなのかなぁと思います。
誰でもヒーローというのはあり得ないけれども、誰もが誰かにとってのヒーローではあり得るというのは、そのヒーローが他者の眼差しの中で他者の願望(善いものであれ悪いものであれ)を象徴するからなんじゃないでしょうか。
逆を言えば象徴性の文脈がなかったら正義の人でもヒーローとは見なされない、という(おまわりさんとか)
『ブラック・クランズマン』
KKK構成員を時代や経済に置き去りにされた哀れむべきホワイト・トラッシュと喝破するスパイク・リーの慧眼。末端の連中が煽動に乗って暴走しても組織の上の連中は責任なんか取りやしない。当然、シャーロッツビルを頂点とするトランプ後に増加したヘイトクライムが念頭に置かれている。
逆説や皮肉を多用する複眼的な作劇は特定の人種や人物への安易な感情移入を許さない。それが良いイメージであれ悪いイメージであれ、人種に対する感情を乗せやすいステロタイプの撤廃こそが反差別闘争の核心だとスパイク・リーが理解しているからだろう。
悪い白人を倒すカッコイイ黒人の図式で客の溜飲を下げることは人種差別を肯定することなのだ。
だからこの映画はKKKの末端構成員を敵であっても悪ではなくそれぞれに家族や仕事がある生活者として描き出す。英断だと思うし、大変な力作だったと思う。
パティ・ケイクス
https://filmarks.com/movies/74455/reviews/63582933
これ、劇場公開時から「ぜったいいいやつでしょ! 見たい!」って思ってたのに、もう近所だと初めから1日に1回だけとかで、見る時間を作れなかったんですよね。
いやもう、よかったです。最後のライブで思わず泣いてしまいました。ラップでスターになることを夢見る女の子の話なのですが、もっと一気に人気になっていくのかと思ってたらけっこうずっとうまくいかないんですよね。いろんなことがうまくいかないし、神のように崇めているラッパーからも貶されてしまう。でもそんなやるせない出来事をいくつもいくつも経験して、自分の本当の姿と向き合い、そして最後の最後に心の底からのライムを繰り出すんです! それが熱い! そしてそこまで自分と向き合う末に出てくるパティの言葉が、それまでの「それっぽい」汚い言葉ではなく、純粋な憤りと美しい愛なのがたまりません! そして黒人青年バスタードがかっこいい!
ここ数年、映画とゲームの垣根が少しづつ崩れてますよね。
ストーリー部分だけで、感動するゲーム作品も出てきてます・・・。
THE LAST OF US 2 とかやばいっすよ!
https://www.youtube.com/watch?v=qsCyu7ivVAQ
で、、10年後のゲーム映像は、たぶんレベル。
https://www.youtube.com/watch?v=wka5RovFEo8
ストーリー部分は、ニール・ブロムカンプが手掛けてます。
あと200年くらいしたら、映画はトータルリコールの世界になってるのかなぁ・・・・・
時間がなく、、議論の流れはあまり追えてないのですが・・・、映画の定義は、個々人で違うものだと思うので、好きな映画を好きな環境で観ていけばいいんじゃないかなぁ...。
映画は、カメラと映写機という科学技術をベースにしたエンターテイメントなので、時代の流れによっても、変化していくものだとして、、
90年前のイギリスに、ハリウッドのトーキー映画が入ってきたときは、いろいろな反応があったようです。
⑴ アメリカ英語が役に合わないときの反感
⑵ アメリカ英語ではなくイギリス英語のトーキーを待望
⑶ アメリカのトーキーがイギリス英語を損なうという政治的発言
⑷ アメリカ英語批判は不当だという擁護
(参照) https://kpu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6073&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
自宅視聴でも、パソコンの18インチでみるのか、居間で50インチで見るのかで違うと思うし…。
この間4K映像を、有機ELテレビをこの間家電店で見たのですが、臨場感が凄すぎでした。10年前に流行った3Dテレビよりインパクトあるかも…。
なにをもって映画とするか(長い)
の問いは意外と複雑で、たとえばキネトグラフは映画の先駆けだとしてもあまり今日的な意味では映画と呼ばないでしょうし、じゃあ映画館で映写されれば映画たりえるかというと、仮に映画館の映画体験の本質を映像や音の迫力に求めるとすれば最初の映画常設館であるニッケルオデオンは「映画」を上映できませんでした。
というのもニッケルオデオンの映写設備は必要最低限のもので視聴環境としては最悪、加えて重要なのはニッケルオデオンでは映画の上映のみが行われていたのではなく、フィルム掛け替えの都合で幕間に音楽演奏や観客の合唱、鑑賞マナーのスライド映写などがあったことで、ニッケルオデオンでは映画の上映と合わせてこれら全てで一つのプログラムとして提供されていたからです。
映画をその歴史に立ち戻って眺めてみると映画とは何かとか、映画館とは何かということの答えを出すのは非常に難しくなる。
と、言いつつ僕も映画は映画館で観たい派なわけですが、要するに昔からこれが映画でこれは映画じゃないというハッキリした境界はありませんでしたし、時代と共に映画のイメージは変わっていったというわけです。