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宮藤官九郎と三谷幸喜のハイブリットとでもいいますか、非常に練られたシナリオがまず面白いのですが、加えて予算規模に見合ったゾンビ映画としてのディティールの懲りようや映像のエネルギーが凄いという…心底驚きました、『カメラを止めるな』は。

シネクイント、多少雰囲気変わってるのかと思いきや自動券売機とスクリーン1の二階席にペアシートが設置された以外は殆どそのままシネパレスだった。

『アートライフ』。このタイトルなら同監督の『リンチ1』の方がそれらしいと言いますか、『インランド・エンパイア』期のリンチの創作活動を活写していて面白かったです。

このインスタンスしか知らないトゥルーマンなので他のインスタンスからの移住者の文言に『地球最後の男』ばりの衝撃を受けている

もとより岩波文化とは縁遠い無教養人間であるから岩波ホールがどのような経営方針を取ろうと感心の埒外だが、劇場前の大看板に記載されているタイムスケジュールと実際のスケジュールが異なるのはさすがに映画館としてどうなのか。

モーガン・フリーマンのセクハラが暴かれるどんでん返しは予想できなかった(『グランド・イリュージョン』)

『ピーター・ラビット』 

ど派手なドタバタ劇の側面ばかりが話題になっているようですが、労働者階級の成り上がり男と無職のパンクス(うさぎ)が一軒の家と一人の女性を巡って殺し合う構図を見れば、これも格差とホームを主題とする最近流行りの貧困寓話とわかる。

ビアがピーターに味方するのも両親が殺された過去に同情しているからではなくて、マグレガーやピーターのように生活に困窮したことのない自身の裕福な身分に罪悪感を抱いているからなんじゃないだろうか。
そのへん、恐らくは意図的にぼやかしているからシャイな映画。

にわか さんがブースト

『アイ・トーニャ』 

ブラックコメディと評する声を見たけれどどこがコメディなのやら。胃が本当に痛い。才能があって努力出来ても、生まれた環境による悪循環からは容易に抜け出せない。自己責任という言葉が大好きな人達には少し考えて欲しいですね。各人が好き勝手なことを言ってるという体裁でトーニャの主張に疑問を向けているのは中立になろうとしているのではなくて完全トーニャ目線だと可哀想すぎて見てられないからだと思う。トリプルアクセル決めるシーンとか成功したスポ根ものだったら決まってるのが余計に堪える。

監督インタビューで、東映実録の熱気を今再現するのは難しい、と。なので韓国ノワールを念頭に置いて撮影に臨んだそうですが、今シネコンにかかるヤクザ映画を撮ろうとしたらこういう方向じゃないと難しいんだろうとは思いましたねぇ、『孤狼の血』ですが。

現在Amazonプライムビデオに大量ラインナップされている映画ドラえもんは新作の公開終了に合わせてプライム無料期間も終了してしまうので、ここは終わらないうちに『ドラビアンナイト』『雲の王国』『宇宙小戦争』などを

にわか さんがブースト

ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!
DVDにて。普通のコメディ映画だと思って観ると、最後の急展開にあっと言わされると思う。少なくとも自分は、え?え?えーーー!?!こんな結末なんかい!!!的な。謎解きとかではありません。これは普通のコメディ映画です。でもなんか普通じゃないんです。
特に結婚して、結婚歴の長いおっさんが観ると身につまされるものがあるっしょうwww

『君の名前で僕を呼んで』のエンドロールはシネコン上映の新作洋画では稀に見る短さでもう終わってしまうのかと驚きが。10分越え当たり前のアクション大作が増えすぎて感覚が麻痺してる。

俺はメタルギアRAYで行きたいのでレディプレ続編あったらコナミぶん殴ってメタルギア出してください(要望)

ヒトラーorアイヒマンを邦題に含めると興行収入UPの業界ジンクスがあると言いますが本当なんですかねぇ

朝一で『クソ野郎と美しき世界』観たんですが、日曜だというのに客はまばらで、新しい地図の本格起動作にしてはチト寂しい入り。

でも演出陣共々のびのび作ってる感じは伝わってきたので悪い気はしなかったです。客ウケを度外視したインディーズ的な映画ならまあ、入りもこんなもんでしょ。

『ラッキー』見たんですが、こういう映画に良いも悪いも言えないので、感想としては今までありがとうございましたって感じです。

オンラインチケット導入。イメージフォーラムのツイッター公式アカウントが両論併記のつもりで否定派と賛成派のツイートを片っ端からリツイートしているんですが、利便性が向上するだけの事でこんなに反対意見が出てくるのかと軽い驚きがありましたね。

何が言いたかったかというと、 

『シェイプ・オブ・ウォーター』の悪役なんかは格好の例だと思うのですが、セックスとジェンダーが一致していると見られる異性愛者でさえ実際には自認という形でジェンダーの選択を余儀なくされており、これを無意識的に可能ならしめているものが性のコードで、コードに縛られているという点では異性愛者だろうが同性愛者だろうがなんだろうが違いはないわけです(異論もあるでそょうが私はそう考えています)

こうしたコードの存在が論点として前景化するのは性に関わる政治・運動の領域ですが、一方で生活者の日常においては自明の事として埋没してしまいがちで、そのことの齟齬はあるだろうと思います。
つまり、本人としては自然に振る舞っているだけの性の私的な領域が性の政治の領域に包摂されてしまったら、それはやはり不愉快だろうと。

ただ、特に性の分野で公と私の領域を完全に分離することは社会に生きる限りは難しいので、なんでしょう、まあ、様々な意見があって難しい分野だなぁと…情けない結論ですが。個人的にはできるだけ色んな立場の意見を聞けたら良いとは思ってます。

性の移ろいといえばコリン・ファレルが性的指向のあやふやな青年を演じた『イノセント・ラブ』、良い映画なんだけどあの繊細なコリン・ファレルを見たあとに現在の野獣系コリン・ファレルに目を移すと動揺する。

映画の話から逸れてしまうのであれなんですが、少し思うところがあったので手短に。

画面に映し出される像をある特定のものとして認識するには社会的なコードが先行していないといけないわけですが、ここで例えば女性の服を着て女性のような仕草をする人を単に女性として見るケースを考えてみると、それは女性は女性らしい服を着て女性のような仕草をするものとして、同語反復的にコード化された女性の概念に無自覚的に従ってることになります。

これは性差別と裏表になっていて、女装する人を単に女性として扱うことは一面ではその人を尊重することであっても、服装や仕草を含むジェンダーコードを強化する側面もあり、そのことが身体的性とジェンダーのギャップに悩む当事者の最大の悩み事である「男なら男らしく」「女なら女らしく」という呪いの言葉としてそっくりそのまま跳ね返ってきたりもする。

これはなかなか難しいところで、そもそも性の選択に内在する本質的な矛盾でもあるので容易に解決される問題ではないと思いますが、性の選択ではなく性の移ろいを肯定
することは、その点で非常に有意義なのではないかな、と思います。

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