何が言いたかったかというと、
『シェイプ・オブ・ウォーター』の悪役なんかは格好の例だと思うのですが、セックスとジェンダーが一致していると見られる異性愛者でさえ実際には自認という形でジェンダーの選択を余儀なくされており、これを無意識的に可能ならしめているものが性のコードで、コードに縛られているという点では異性愛者だろうが同性愛者だろうがなんだろうが違いはないわけです(異論もあるでそょうが私はそう考えています)
こうしたコードの存在が論点として前景化するのは性に関わる政治・運動の領域ですが、一方で生活者の日常においては自明の事として埋没してしまいがちで、そのことの齟齬はあるだろうと思います。
つまり、本人としては自然に振る舞っているだけの性の私的な領域が性の政治の領域に包摂されてしまったら、それはやはり不愉快だろうと。
ただ、特に性の分野で公と私の領域を完全に分離することは社会に生きる限りは難しいので、なんでしょう、まあ、様々な意見があって難しい分野だなぁと…情けない結論ですが。個人的にはできるだけ色んな立場の意見を聞けたら良いとは思ってます。
映画の話から逸れてしまうのであれなんですが、少し思うところがあったので手短に。
画面に映し出される像をある特定のものとして認識するには社会的なコードが先行していないといけないわけですが、ここで例えば女性の服を着て女性のような仕草をする人を単に女性として見るケースを考えてみると、それは女性は女性らしい服を着て女性のような仕草をするものとして、同語反復的にコード化された女性の概念に無自覚的に従ってることになります。
これは性差別と裏表になっていて、女装する人を単に女性として扱うことは一面ではその人を尊重することであっても、服装や仕草を含むジェンダーコードを強化する側面もあり、そのことが身体的性とジェンダーのギャップに悩む当事者の最大の悩み事である「男なら男らしく」「女なら女らしく」という呪いの言葉としてそっくりそのまま跳ね返ってきたりもする。
これはなかなか難しいところで、そもそも性の選択に内在する本質的な矛盾でもあるので容易に解決される問題ではないと思いますが、性の選択ではなく性の移ろいを肯定
することは、その点で非常に有意義なのではないかな、と思います。