『ホース・ソルジャー』
『マイティ・ソー』のクリス・ヘムワース主演の実話ベースの戦争映画。
12人編成の特殊部隊がタリバンに支配されたアフガニスタンの街を奪回するために、反タリバンの現地部隊と合流して、空爆と騎馬戦でタリバンを撃つ。
5万対12の戦いが売りにはなっているが、実際には現地部隊と合流しているから50~100人はいたんじゃないかな? それに何度か空爆もしてるから『ラスト・サムライ』や『ローン・レンジャー』からするとあんまり少数精鋭感がない。
現地民との合流と奪われた街の奪回と言うと『アラビアのロレンス』を匂わせるが、ちょっと匂っただけ。馬を使った対戦車や砲撃部隊の戦いはちょっと新鮮というぐらいで、あとはストレートな戦争バトルもの。
壁を挟んでの攻防にちょっぴり『ザ・ウォール』らしさはあったかな。
ただ、空爆のシーンにはいささか複雑な思いがあったね。シリア空爆から間もないだけに。タリバンに大打撃を与えた英雄、少数部隊の映画ね。プロパガンダと見ればいくらでも出来るが、それも強くはない。
『ネイビー・シールズ』の陸軍版とも言えるかな。
『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』
マーゴット・ロビーのスケートのシーン、エンドロールに映るトーニャ本人のそれとほとんど変わらない。あれは凄い。
それとオレゴンやミネソタとかアメリカの北の方の田舎の風景、労働者・下流層の風景、アメリカのフィギュアスケート界隈の風景などどれも良かった。1975、6年から20年ぐらいのアメリカの時代を一気に駆け抜けるが、基本は80年代の風景なんだよね。
田舎の風景は『スリー・ビルボード』、下流層の風景は『フロリダ・プロジェクト』が被ったかな。その象徴がファミレスのバイトとアパートみたいな住まい、喫煙&飲酒癖かな。
シリアルの食べ方一つを取って見ても育ちの悪さ、環境の悪さが分かる。
そんな中で、トーニャと父親との狩猟のシーンに一服の清涼があったね。
どこの国でもスポーツマン、アスリートって育ち云々があるけど、古くは「巨人の星」、リアルでは辰吉や亀田一家など育ちがよろしくなくても日本では通じちゃうが、アメリカって意外にも家庭の育ち云々を見ちゃうんだね。いや、アメリカじゃなくてフィギュアスケートの世界観がそうなのかな。
『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』
トーニャと元旦那ジェフとの仲が悪くなってから事件までの流れは黒澤明の『羅生門』ともコーエン兄弟のサスペンス映画のような展開にも映るクライム・サスペンス。負の連鎖がスパイラルとなり悲劇に向かう。
同系統のダークなアスリートの映画に『フォックスキャッチャー』があるが、あそこまで不穏でないものの近い匂いはある。その違いとしては、負の連鎖を作り出す元旦那ジェフやショーンらのトーニャに対する身の丈のあわない愛情とドジさ、感覚のズレ。そこにコーエン兄弟の作品的なブラックなコメディセンスがある。
さらにそれを彩る70年代~80年代のポップ、ロックナンバー。ハートの「バラクーダ」なんかはトーニャの闘志にリンクしてたし、実際のフィギュアスケートでも使われたZZ TOPの「スリーピング・バッグ」もあの時代のアメリカの雰囲気にばっちりあうし、エンドロールに流れるスージー&ザ・バンシーズによるイギー・ポップのカバー曲「ザ・パッセンジャー」もトーニャのやさぐれた波乱万丈な人生に同調し、仄かな感動を覚える。
『アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル』
アメリカの女子フィギュアスケートで初めてトリプルアクセルを決め、オリンピックにも二度でたが、それよりもライバルのナンシー・ケリガン襲撃事件で一躍時の人になり、歴史に名を残したトーニャ・ハーディングの半自伝映画。
いやーーーー、素晴らしかった!
ナンシー襲撃事件までのトーニャ・ハーディングの軌跡を追いながら、彼女の光と陰を見事に描いている。いや、光が1/10ぐらいの氷山の一角で後は陰。
母親、元旦那のジェフ、ジェフの友人ショーンと揃いも揃って屑で貧困、労働者的な生活臭が漂う。環境としては悪い環境の中でトーニャが才能でのしあがっていく。
トーニャも才能以外は周りの環境の影響でやさぐれと気性の荒らさ全開。それが表舞台に出るときに滲み出て、競技の審査員の心象を悪くしている。
元旦那のジェフとの一瞬の仲むつまじい時以外は、母親は暴力&罵詈雑言、ジェフもDV、競技に出れば審査員との厳しい目線となにかと敵が多い中をやさぐれと気性の荒らさで切り抜けるトーニャはスケートリンクの花と言うより毒々しい華である。
『心と体と』
後半に裸体やセックスの描写はあるが、それ以上に映画全体がエロいフェロモンでムンムン。
女性の服装からチラチラする胸や髪型、化粧、女性を見つめるようなカメラワークなど覗き見や凝視視線でとにかくエロく見せる。
かつてのミケランジェロ・アントニオーニの作品や最近ならスペイン映画『シルビアのいる街で』に通じるエロさ。決してピンク映画ほどの直球ではないが、じわりと丁寧に淡いエロスである。
全体的に青や緑、赤の入れ方にカウリスマキに通じる映像に一曲ながらも見事な選曲センス、マーリアが部屋で一人でいる時のレゴ人形遊びなど、派手さはないが絶妙なセンスの良さで見せる。
食べるシーンや性に繋げるまたは性表現が多い辺りに元東側の国だったハンガリーらしさを感じつつ、ハンガリー映画『タクシデルミア ある剥製師の遺言』に通じる物をハンガリー人のDNA的なものをふと思わせてくれた。
『心と体と』
ハンガリー映画で去年のベルリン国際映画祭の金熊賞作品。
エロい恋愛睡眠映画にして繊細。
鹿になる夢、職場の屠殺場&食肉加工工場の風景とそこに渦巻く人間模様、そして初老でバツイチのくたびれた工場の財務部長エンドレと綺麗だけど神経質&アスペルガーなアラサー女マーリアのヒューマン、恋愛。
不思議ちゃんマーリアと初老のエンドレが少し意識をする関係になったのが同じ夢を見るという現象だが、これがシュール。夢で恋愛という構造自体はミッシェル・ゴンドリーの『恋愛睡眠のすすめ』や『エターナル・サンシャイン』でもあったがそれよりもリアリティー。かつ、つながる、現実とは違う自分になるという発想は『アバター』や『レディ・プレイヤー1』をちょっと彷彿させつつ、動物変身願望は『ロブスター』などいろんなものがダブる。
ストーリーの展開そのものは工場内の人物相関、ある事件、色恋模様とシンプルだが飽きない。屠殺場&食肉加工工場というブルーカラーの世界だが必要以上に悲壮感や悲哀はないが、動物の屠殺に『いのちの食べかた』的な物を感じたり、色恋ごとのみに興味が集中する職場に動物的なものを感じる。
『タクシー運転手』
同じ国民同士の内乱で、何の罪もない市民に対する理不尽な暴力を生々しく描いた点ではキャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』に類した作品だが、ドキュメンタリータッチと暴力性にクローズアップされた『デトロイト』とは微妙に違う。
まず、ソウルのタクシードライバーとドイツ人記者ピーターによる言葉がいまいち通じない同士のバディ・ムービーであること。
それと何よりもソン・ガンボの独特なコメディセンス。間合いといい、前半のこすい感じが憎めない。
そして、韓国の南側の地域・光州の人々の温かさを全面に出したドラマにホロッと来る。給油所でサービスで金額以上にガソリンを入れたり、夜遅くに見知らぬドライバーの車の修理に嫌な顔をせずに付き合ったりとなにかと温かいおもてなしを見せてくれる。
それが故に中盤以降に彼らが理不尽な暴力にあうシーンに胸を痛めるし、クライマックスシーンのカッコいい演出に胸が高鳴る。
ラストの爽やかさにやはりマーティン・スコセッシ監督の『タクシー・ドライバー』を見た。
自国のブラックな題材に臆しない韓国映画の傑作!
『タクシー運転手』2回目 ①
韓国映画『光州5・18』の光州事件をソウルのタクシードライバーとドイツ人の記者という外様目線で描いた社会派作品。
ソン・ガンボ演じるソウルのタクシードライバーも無学・無知な労働者なのでソウルから離れた光州の事件に関してはほとんど知らない。
つまり、光州事件を全く知らなくても映画を見る観客もソウルのタクシードライバーとピーターの目線・感情に近い形で見ることが出来る。
この異邦人目線・感情のその国のとんでもないブラックな様子を映した映画としてはマーティン・スコセッシ監督の『沈黙 -silence-』と近い手法をタクシードライバーとドイツ人記者でさらっとやってのけている。
加えて、このピーターの体を張った戦場リポーターさながらの取材はドキュメンタリー映画『ラッカは静かに虐殺されている』の市民ジャーナリスト集団RBSSに通じるものがあり、1980年の出来事ながらも現代に通じるものがある。
『市民ケーン』と『ソーシャル・ネットワーク』を『レディ・プレイヤー1』に照らして出てきたイースターエッグ
『市民ケーン』を見るといろんな併せ鏡というか対になっている。
新聞を起点にリアルの世界を制したチャールズ・ケーンに対し、
『レディ・プレイヤー1』/『ゲーム・ウォーズ』のジェームズ・ハリデーはオンライン・ゲームという虚構で世界を制している。
ちなみに、『市民ケーン』にはウィリアム・ランドルフ・ハーストという実在の人物をモデルにした映画だが、
『レディ・プレイヤー1』は基本はアーネスト・クラインによる創造の産物になる。
また、作品による“女性”の関係は『市民ケーン』よりもこれまた『市民ケーン』タイプの映画作品『ソーシャル・ネットワーク』に類似している。
『ソーシャル・ネットワーク』では冒頭でマーク・ザッカーバーグが付き合っていた女性にふられた腹いせに作ってたソーシャルゲームが起点で、女性・世間に対する見返しの産物てある。
『レディ・プレイヤー1』のジェームズ・ハリデーは想っていた女性の胸に飛び込めず、自分の居場所・世界である「オアシス」を造り上げた。
『レディ・プレイヤー1』は『ファン・ボーイズ』の監督でもある『スター・ウォーズ』オタクの原作者アーネスト・クラインの映画に、80年代の映画界の創造者にしてアーネスト・クラインが崇拝しているジョージ・ルーカスのライバルであるスティーヴン・スピルバーグが“仕事”として“監督”をした映画と見ている。
これが功を奏したのはウルトラマンとレオパルドンなどが版権問題や公開後のアメリカでの興行を考え使えないことから脚本を大幅に変えなきゃいけなくなった所にある。アーネスト・クラインのみの脚本ではなく、『ラスト・アクション・ヒーロー』やいくつかの『X-MEN』シリーズ、『アベンジャーズ』の原案者でもあるザック・ペンとの共同脚本で客観的に捉えられた所も見逃せない。
辛うじて原作の原型をとどめて、ジェームズ・ハリデー=アーネスト・クラインのオタクの夢のようなギーク小説を、一見単純明快なアクション&アドベンチャー映画に仕立てたのは仕事人であるノーラン・ソントン、オグデン・モロー=スティーヴン・スピルバーグである。