@amblin 久しぶりですー。それだけか!
> 鑑賞者を育てない
結局のところ、そういう鑑賞者を育てている主体は日本社会そのものなんだよなぁ・・・。というのも
> フランス人は映画を芸術として見ています
元々フランス人が伝統的にそういう思想を受け継いでる来ているからなんだよね。
> 子どもたちの鑑賞眼や批評力は伸ばされる
フランスではしょっちゅうデモが起こる。日本では起こらない。これって「個人」という主体を持つフランス人と、「個人」が希薄な日本人の違いなんだよね。
日本人には「せっかくお上(映画製作者)が制度(映画)を作ってくれたんだから、ありがたく従い(鑑賞し)ましょう」みたいな共通の前提がある。「個人」が主体じゃないんだよ。
> 映画館は“共同の体験”です。
これロサ会館で「カメラを止めるな!」を観たときの、あの観客とスクリーンが一体となっていた感じだよな。。。あれは感動したっす。あんな体験ははじめてだった。
こういう体験はローカルな映画館ならではだと思う。
「愛がなんだ」は信仰についての映画だ
@tacchan https://tomomachi.stores.jp/items/5d0d4448698fa51f6fe0830f 町山さんも宗教について言及している。しかし俺的に、この映画の中では、テルコはまだお試しという段階までは達してないんだよな。お試しというのはもっとドン底まで落ちてからやってくるものだと思うなぁ。。。
沈黙 マーティンスコセッシ版 1
最近キリスト教について知ったので見直してみた。初めて観た時はよく分からなかったが、キリスト教について少しだけ知ってから観るとまた違ってくるし、意味もなんと無く分かる。
キリスト教における最大の福音は「神は見ている」ということ。
この映画、文字通り神は沈黙している。
キリスト教なんか信じてアフォか。日本ではキリスト教は広まらないんだぜ。信仰者は虐げられ。惨めで何もいいことないじゃん。窪塚は全然更生しねーし笑。神なんか信じてもいいことなんてねーじゃん。
神を信じたら良いことがある。この発想があるとこの映画の意味って全然分からないんだよね。神が良きことを与えてくださる?違うんです。
神は道をお示しになる、とかよく言ったものですが、神は見てるだけなの。何もお示しにはならない。ただ見てるだけ。実はこれがキリスト教における最大の福音。
神は何も与えてはくれない。道も示してはくれない。
しかし、神が見ていると知ったらその人はどのように行動するだろうか?バトンは常に人間の側にある。
神は見ている。そのときお前にそれができるのか?
これが倫理だ。
「愛がなんだ」は信仰についての映画だ
本来であれば、キリスト教は見返りを求める信仰を否定する。見返りを求めない、自己犠牲的な信仰こそを尊いものと見なす。
これがとても普遍的な価値観であるところが不思議なんだよね。
西洋思想は、ほとんどの場合キリスト教が根底にあるのであまり参考にならないけれども・・・
日本だと武士道とか禅がそれに似てる。
世界各地の英雄譚には、こうした、御利益信仰の否定が含まれているのではないか?とさえ思うんだよね。
「愛がなんだ」は信仰についての映画だ
@tacchan この映画、マモちゃんの心理が全く分からないんだよね。何を考えているのか全然分からない。これって神の意思が人間には分からないということのメタファーなんだよ。
キリスト教の文脈においては
テルコは良き信仰者なんだよね。どんな不条理があろうともマモちゃんを信じる。仕事までやめちゃったw。不合理な選択を受け入れる。
ナカハラが悪しき信仰者。彼は見返りを求めている。ご利益がないと分かり、信仰を捨てた者。
もちろん、一般的な社会の中では、ナカハラは賢く、テルコはアホということになる。しかし、どちらが正しき信仰者であるか?という問いの答えはテルコなんだよね。
「愛がなんだ」は信仰についての映画だ
この映画のテーマは信仰だ。最近、キリスト教の話を聞く機会がありまして、そこでハッと思い出したんですよ。ズバリ。この映画はご利益信仰批判。
キリスト教の話を例にするとわかりやすいから、それで説明します。が、別にキリスト教だけね当てはまることではありません。
自分の利益の祈りをご利益信仰という。何故神に祈るのですか?決まってんじゃん。金持ちになるためよ!大学に受かるためよ!こういうのがご利益信仰。
キリスト教において本来ならば、そのようなご利益信仰は批判される。何故なら、神に祈れば救われるという考え方に従った信仰は間違っているから。人間には神の意思など絶対に分からない。
たとえ不合理であっても神を信じろ。それが信仰なのだ。信仰者にとって、一見不合理に見える結果だったとしても神の視座から見たらそれは合理的なのである(主知主義)、或いは、神が不合理をあえて望んでおられる(主意主義)。
もうお分かりですよね?マモちゃんは神なんですよ。そしてテルコは信仰者。
@tacchan 「日本人ならなんとなくこんな感じ方をしてしまう」という感情の働きを「共通感覚」という。共通感覚は、理性でコントロールできるものではなく、人が生まれた後、その地域、共同体、その人個人の経験の積み重ねから醸成される感情のこと。
日本のコンテンツは視聴者に対してある特定の感情を強要してくるんだよね。例えばこう。
あるシーンにおいて。コンテンツ製作者は次のように視聴者へ強要する。こういうシーンを入れてる理由は皆さんわかりますよね?こういう風に感じて下さいね。そう感じることが正解です。
国語のテストみたいな感じ。日本では、小中高の国語の授業にて、文学作品を読んだ後の感情を強要される。この登場人物は今どう感じてますか?というテストの問題がよく出る。驚くべきことに、日本のテストでは、この問いに正解が用意されている。
こうした共通感覚の多様性の乏しさは、人種や宗教の多様性の乏しさに起因するのかな。誤解を恐れずに言えば、日本には日本人しかいないんだよね。
製作者は中流階級の平均的な日本人だけを想定すればどこからも文句がなく、それなりにヒットするコンテンツを作れてしまう。
ある特定の物質が悪い!というふうに、単純に片付けられる問題ではない。
多分複合的な条件によって駆動されるメカニズムなんだろうな。
社会科学とか経済学とか数学の分野で、すでに説明されているのかもしれないけれど、俺は知らない。
社会インフラが国の経済力によって支えられるようになった後、その国の民衆は金を儲けざるを得なくなる。
何故なら、金を儲けられないと、自分たちの社会が維持できないから。成長を強要される社会のでき上がり。こうなるともう「負のスパイラル」でしかない。
この過ちは昔から割と知られているはずなんだけど、人間は繰り返しちゃう。最近読んだ本では「サピエンス全史」の農業革命。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の清教徒革命。個人で例えれば依存症みたいなもんだよね。経済における「先行者利益」とかかなぁ。
各問題は異なるけれど、その構造は非常によく似ているんだよね。その構造とは「ある手法が発見される。その手法は、最初は一部の人たちに莫大な利益をもたらす。徐々に社会全体に広まる。いつの間にか、その手法なしでは生きていけなくなる」みたいな。
・・・書いてて気づいたけれど、やっぱこれ人間の依存症と同じだわ。依存症は、ドーパミンが大量放出された初期体験を忘れられずに、ある行為を継続することから抜け出せなくなる症状だもんなぁ。
ちなみに薬物依存と行為依存は、脳内では全く同じだから。