ぼくのお日さま鑑賞。無駄に長く書いてしまった。 

タクヤが、まるで世界にその人しか存在しないみたいに無音の世界でさくらを見つめる。友人や荒川の視線にも気づかず。また、凍った湖で練習~ふざけたり遊んだりする光景も美しくて幸せで、でもそういうあたたかさの一方で、後から苦さをしっかり効かせてくる。(映画後に監督のトークショーを聞いたのもあっての印象なんだけど)世界に対する認識に、お日さまみたいなあたたかさと、鋭いというか冷たい?冷静な?距離感の両方を感じる。
タクヤの恋…憧れ?をまっすぐで羨ましかったと口にする荒川。まぁ、そこ自体をどうかと思う気持ちもある。タクヤのあのまっすぐさはさくらへの恋というよりは、フィギュアスケートに対する憧れだと私は勝手に思っていたので、結局異性愛という"普通"に縛られているのは荒川の側なのかなと思ったり…というのは置いといて。誰に見られても咎められないタクヤの気持ちは、荒川にとっては手に入らないけれど捨てきれない、眩しいものに見えたのかな。自分と五十嵐の関係が間違っているとは思わないけど、それを間違っていると見てくる人がいる。

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ぼくのお日さま鑑賞。続き1。 

最初の方でガソリンスタンドに寄った時、荒川の表情が寂しそうに見えた。他のお客さんが来て友人が離れて行ったから?と思ったのだけれど、後から考えるとあの時「実家帰ってきたの?お母さんも安心だね。結婚するとか?」みたい会話をしていた。なるほどそうかと気づいたのは後からだったけど。池松壮亮と若葉竜也、二人の演技ももちろんとても良かったし、他にもタクヤの家族の食卓の後に荒川と五十嵐の食卓での会話があったり、さらっと部屋の感じを映したり、ルームメイト以上なんだなとわかる描き方が細やかで好き。
その分さくら周りの描写はちょっとキツイ。そういう保守的な?家庭なのかもとか、お母さんの感じとかから受ける印象で、なんとなくあの言葉が出てくる環境がわかりそうな部分はあるけど、描写不足というか、子どもは描けても女性を描くにあたっての限界なのかも、とも思う。

ぼくのお日さま鑑賞。続き2。 

荒川先生はなんでこんな田舎に来たんだろうというような友人の言葉、タクヤに教えるのは自分の時より楽しそうに見える先生、車の中で知らない人とじゃれあって、自分の横を通り過ぎても気づきもしない、楽しそうな先生。そういうモヤモヤした点をさくらは一つの線にしてしまったんじゃないか。なーんだそうだったのか、結局そんなものかと、世界が色褪せたように感じたのかもしれない。そうして、自分が傷ついたのと同じくらい他の人にも傷ついてほしいと思ったら、心にもない…わけでもないけど、本来想定する以上の鋭さを持った言葉を、使ってしまうんじゃないか。まだ子どもだから。まぁ、だから何を言っても許されるというわけではないけれど。
映画を作ってる人の話やたくさんいろんな作品に触れている人の話を聞くと、多様とか寛容とか、世界は理想や信念に燃えた人に動かされているように感じるけれど、現実って実際そうじゃない部分がある。それをこう一見優しく見えるような映画につきつけられると、ちょっとショックが大きい。そうじゃない部分というのが"まだ"そうじゃないであってほしい。過渡期の映画として受け取ることにする。

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長々と感想を書いたので、どうでもいいこともついでに書くと、池松壮亮は特に声がセクシーだなぁと思います。

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