何が言いたかったかというと、
『シェイプ・オブ・ウォーター』の悪役なんかは格好の例だと思うのですが、セックスとジェンダーが一致していると見られる異性愛者でさえ実際には自認という形でジェンダーの選択を余儀なくされており、これを無意識的に可能ならしめているものが性のコードで、コードに縛られているという点では異性愛者だろうが同性愛者だろうがなんだろうが違いはないわけです(異論もあるでそょうが私はそう考えています)
こうしたコードの存在が論点として前景化するのは性に関わる政治・運動の領域ですが、一方で生活者の日常においては自明の事として埋没してしまいがちで、そのことの齟齬はあるだろうと思います。
つまり、本人としては自然に振る舞っているだけの性の私的な領域が性の政治の領域に包摂されてしまったら、それはやはり不愉快だろうと。
ただ、特に性の分野で公と私の領域を完全に分離することは社会に生きる限りは難しいので、なんでしょう、まあ、様々な意見があって難しい分野だなぁと…情けない結論ですが。個人的にはできるだけ色んな立場の意見を聞けたら良いとは思ってます。