映画の話から逸れてしまうのであれなんですが、少し思うところがあったので手短に。
画面に映し出される像をある特定のものとして認識するには社会的なコードが先行していないといけないわけですが、ここで例えば女性の服を着て女性のような仕草をする人を単に女性として見るケースを考えてみると、それは女性は女性らしい服を着て女性のような仕草をするものとして、同語反復的にコード化された女性の概念に無自覚的に従ってることになります。
これは性差別と裏表になっていて、女装する人を単に女性として扱うことは一面ではその人を尊重することであっても、服装や仕草を含むジェンダーコードを強化する側面もあり、そのことが身体的性とジェンダーのギャップに悩む当事者の最大の悩み事である「男なら男らしく」「女なら女らしく」という呪いの言葉としてそっくりそのまま跳ね返ってきたりもする。
これはなかなか難しいところで、そもそも性の選択に内在する本質的な矛盾でもあるので容易に解決される問題ではないと思いますが、性の選択ではなく性の移ろいを肯定
することは、その点で非常に有意義なのではないかな、と思います。