レディ・イン・ザ・ウォーター
おれは、この映画自体が揺籃だと思う。興行的に失敗し、ラズベリー二部門を受賞し、ありとあらゆる艱難辛苦をシャマランが舐め、やがて「ヴィジット」「スプリット」を生み出すための痛々しすぎる、破られてしかるべき青年期の理想をつめた卵の殻だ。
この映画の、書き割りめいた“悪”の記号めいた貧相さを思い、それと「スプリット」の触れれば皮膚から血の滲む、痛々しくもリアリティ溢れる“悪”を比較してみて欲しい。この神々しい理想を掲げ、それを粉砕されることによってしか、その後のシャマランはなかった
この映画自体が、「中年になり、苦々しくも微笑ましく思い返す、血気盛んな青年期の理想」のようだ。なんたる痛々しいおとぎ話。これを書いているいまでも胸が痛む。ずっと痛みつづけるだろう。世界はどうして、このおとぎ話のようには変わらなかったのだろうか。
「スプリット」を観て、その文学性に激しい興奮を覚えたのだけれど、この映画にしてからそのすべてが文学的で、その上でこれは映画でなければ描けなかった映画、なんだ。シャマランの才能が文学に行かず映画に残ったことに、世界はもう少し感謝していい