解放区
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、いわゆる左と右の両方の陣営の人たちにこの映画を観せて、その感想を聞いてみたい。
リトマス試験紙のような映画だ。
この映画は、大阪市にいちゃもんをつけられたことにより、映画祭の出品を断念したらしい。大阪市はこの映画で描かれているような人々の生活が「西成のリアル」として世間に広まることを嫌がったのかな?この映画で描かれている西成は昔の西成であって、現在は違う、という事らしい。
残念だ。
この映画、誤解されているというか・・・「西成のリアル」という観点からこの映画を観てしまうと、確かに、微妙だと思う。「西成のリアルを描いた映画です」という宣伝に釣られてやってくるような人間って、どんな人間なんだろうか?この映画の主人公である須山が、まさに、そんな人間の一人なのであるが・・・この辺り、非常にアイロニカルで面白いのであるが、説明が難しい・・・
「西成の街」は、この映画の要素の一つでしかない。「リアリティ」は、どちらかというと、この映画の「メイン」ではなく「サブ」要素に過ぎない・・・と思うのだが。
開放区(ネタバレ?)
私は西成のリアリティについてはわからない。西成には行ったことがないからだ。
でも、この映画の監督である太田信吾さんが西成に魅力を感じた理由はなんとなくわかる気がする。西成で路上生活者の支援をしている人たちの証言を聞いたことがあるのだが、やはり、西成は東京とは何かが違うらしいことが伺える。
この映画を観て、東京と西成で違うなぁと思ったことは、汚いおっちゃんがカップ酒片手に路上や公園でたむろしてる、ということだ。この光景は、東京ではいまや珍しい。道路も公園も綺麗。汚いおっちゃんはいない(東京では「私は社会派で善良な人間です!」と自称する輩が行政に苦情を言い続けた結果、こうなったのだが・・・)
路上とは公共の場所=みんなの共有スペースではなかったのか?東京の人は、自分が生活に困窮する可能性を考えないのだろうか?とよく思う。彼らは路上や公園にすらいれないとしたらどこに行くのか。自殺するのか?まぁ自殺する勇気があればの話だが・・・。
要は、西成には開放的な雰囲気がある。これについては、この映画の中でよく描けていたと思う。
開放区(ネタバレ?)
映画の中で、「私は社会派で善良な人間です!」と自称する須山(本作の主人公)は、西成でその本性を曝け出す。
人種差別反対やLGBT主義を自負している人、大日本帝国の復活を応援している人、五輪に賛成する人、五輪に反対する人、人の命を大事だと主張する人、戦争に行きたい人。神を信じる人。そうでない人。
人は口ではなんとでも言える。嘘かもしれない。
その主張に行動が伴っている人が、どれだけいるだろうか。
全ての言葉は無意味なのか?
無意味だ。当たり前のことだろうが。なぜそんな当たり前のことがわからないのか。
まぁ仕方のないことだ。いまの時代、言葉の力が強すぎる。
とまぁ色々と語りましたが、要は、昨今のSNSで蔓延する「私は善良な人間です!」主張合戦をしている輩に対して、「お前口だけじゃん」と言わんばかりに冷ややかに一石を投じる本作のような映画を、私は好きなんですねぇ・・・。
ネタバレ
かく言う私も、観る前は「西成の生活を体験する映画かな?」なんて思っていた。
全然違っていた。
意図された演出とシナリオがあった。
西成の人が出てると聞くと、最近公開された「ノマドランド」のような映画を想像してしまいがちであるが、そういうのを期待してはダメ。いわゆる「ドキュメンタリー映画」として観てはいけない。「ドキュメンタリーを撮っている須山というクズ人間の物語」という、完全なるフィクションとして観た方が良い・・・てゆーか、そういう作品でしょ。どこからどう観ても。しかも製作者のメッセージ性がわりと明確で強い。私の所感的には「万引き家族」にとても似ていると思う。「私は社会派で善良な人間です!」とか自分で言っちゃうような輩を徹底的に批判している。だが・・・そのような輩に対して「ハッ」とした気づきを与えることができなかったという点では、この映画はまだまだなのかもしれない。でも良い線いってると思う。