なぜ、そのような生き方がダメか?
そもそも「この世は全て仮想現実だ」という考え方は危険思想だとされている。しかし、そもそも人間が仮想現実を信じるというのは本能なんだよね。危険思想だからといってそれを否定したところで、本能からは逃れることができない。
だから、この世に存在する全ての「記号」は仮想現実なんだよね。五感から得たデータを入力とし、脳が処理し、その結果を「現実」と呼んでいるだけであって、我々は世界をそのまま認識してるわけじゃない。脳が適当に変換した結果を認識してるに過ぎない。脳の構造によって「現実」など容易に変わってしまうもの。・・・そもそも現実とは何なのか?という話になる。
このことから分かるのは、「言語」は仮想現実ということ。「意味」も「概念」も「観念」も仮想現実。
最近「記号」を仮想現実だと思えない人が増えてきている気がするんだよね。「この酷い現実」とか「悪い政治家」とか言うけれど、全て記号なんだよ。
我々は記号、つまり仮想現実に振り回されちゃアカンのよ。酒は飲んでも飲まれるなと言うでしょ。
「未来」も「良いこと」も仮想現実。
「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」「悪い未来を良くする」という思想の負の側面というのは、たいていの場合「未来」やら「良い」やら「悪い」といった記号が外部から与えられているということなんだよね。他人が作り出した「未来」とか「良いこと」という記号に振り回されているだけなんだよね。
「目的」も記号に過ぎない。だから「何かを達成するために目的を立てろ」という言葉それ自体には意味がない。
ではニヒリズムに陥れというのか?そうじゃない。
「達成すること」で、「意味のない遠回りだったなぁ」と気づく経験こそに価値があるんだよね。達成そのものに価値はない。記号に意味はない、という考え方は、意味のない遠回りを経験しない限り、理解できないのかもしれない。
記号に意味がないことに気付けると生き方が180度変わる。
目的=達成、手段=生き方
ではなく
目的=生き方、手段=達成
となる。
「何かのために生きる」ではなく「生きるために何かする」となる。
つまり、いま現在の生きることを最優先にすれば良い。むしろ、そのために「目的」や「達成」といった記号を活用するようになる。
「未来に良いことがある。だから頑張ろうぜ!」という思想は、資本主義に起源があると言われてるけれど、、、
マックスウェーバーのプロ倫によれば、元々は、資本主義こそ「プロテスタンティズムな生き方」を実践するための「目的」に過ぎなかった。そういう意味で「目的=生き方、手段=達成」なんだよね。いつの間にか目的と手段が逆転しちゃったのが現在の状態。
外部から自分の脳へインプットされた記号に踊らされてはならない。我々は記号を作り、操り、良い生き方をする事自体を遂行すべきなんだと思う。
「恋はデジャヴ」で描かれていることって、まさにこれなんだよね。
本作の序盤、主人公は記号に振り回され、生き方を蔑ろいにしている。
中盤、主人公は、自分の頭の中にある記号(外部から与えられた目的)を全て達成するが、満足できない。次第に抑うつ的になり、ニヒリズムに陥り、生きる気力がなくなる。
終盤、主人公は生き方そのものが目的となり、手段としての記号(ピアノだったり、人助けだったり、所謂、「良きこと」)を上手く使えるようになる。
生き方や思想は、そう簡単に変えることはできないんだよ。だから「ある目的を達成するために生き方や思想を変える」なんていうことは、そもそも無理なんだよ。なぜなら、人間はいち動物に過ぎないのだから。
「記号としての御利益(地位、お金、名声)がなければ、なにもしない」
こういう考え方で生きている人は、気をつけた方がいい。
(1)もし御利益を得ることができたとして、お前はその御利益に満足できないだろう。なぜなら、その御利益はお前が心の底から本当に欲していることではないからだ。その御利益は、所詮は外部から与えられた記号に過ぎない。御利益が無意味だということに気付ければ良いけれど、そんなことは滅多にないだろう。
(2)御利益を得ることができない場合、御利益を追い続けることで生き方を蔑ろにし、生き恥を晒し続けることになる。かつ、御利益を得られないことによる自己嫌悪が続く。
まあしかし「御利益を追い続けて醜態を晒し、全てが無意味だったと気付き、過去を後悔をする」という代償を払うことでしか気づけないのかもしれないね。